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明神山レジメ

令和3年3月28日(日)明神山例会のレジメです。

ご参加の方は事前に目を通しておいてください。
何でここに神武天皇の話が出てくるの?何で?疑問のお気持ち分かります。北九州筑紫(神話では九州南端の吾多半島)から、物部が君臨すると聞いた大和を目指して神武天皇が(勿論この時は即位していない)東征の旅に出た。着いたのは河内国の草香邑の津(東大阪市の日下クサカ町辺り)。ここから徒歩で信貴山の南麓を通って竜田に向かい、大和に入ろうとしたが道が狭く険しく列を作っていくことができない。そこで一旦引き返して胆駒山(生駒山)を越えて内国(=大和)に入ろうとした。物部の長髄彦はこれを聞いて全兵力を動員して孔舎衛坂クサエノサカ(=日下坂)に防衛線を張ったと日本書記に書いてある。去年の例会でも同じことをしてまだ記憶に新しいが、大和側の南側の明神山に続く長い尾根を歩く途中で信貴山の南麓が目の前に見えるので、今回ももう一度神武の軍勢を想像してほしい。(井上光貞監訳「日本書記 上」参考) 軍勢の規模について日本書記にはコメントがない。ただ「全兵力を動員して・・・」となっているからかなりの軍勢だったとは想像するが、自由に想像できる。ということで神武天皇が今日の例会に出てくるというわけ。
 明神山の頂上には展望台ができていて四囲の展望をほしいままにできる。そこに水の神様ミズハノメノミコトを祀っている。村中の信仰を集め、雨乞いもした。旧の9月1日には村中の人々が酒やご馳走の重箱を持って集まったと王寺町史に出ている。大和川の葛城二十八宿の経塚亀の瀬の遥拝所でもある。お伊勢参りが盛んになり、その波に乗って頂上にはオオヒルメノミコト(天照大神の別名)も祀られた。大勢の参詣客があり、徳島の人も来ていたと町史で読んだ。畠田駅も近くなると立派な燈籠があり、伊勢神宮を意味する「大神宮」と嘉永二年(1849年)の刻がある。お祭の出店は子供は楽しみにしていたそうだ。そこまでの途中、畠田の丁名をよく見かけるが以前は「送迎」と書いてヒルメと読ました。今も電話電柱にヒルメの文字が残っているが消えていくのは寂しいことだ。頂上から10分ほどの所に送迎峠という峠がある。勿論送迎の読み方はヒルメ。ここで左へ分岐する道は聖徳太子が上ノ太子と斑鳩を往来するのに通ったという歴史がある。が、今は通れる道ではなさそうだ。送迎ヒルメに差しかかると小さな広場があり、そこでその送り迎えが交代。聖徳太子をお慰めするのに村の娘が踊りを踊ったというところからこの広場にオドリバの名がある。ここは頂上の水の神様の遥拝所にもなっていて祠がある。今回も、色んな歴史を思い浮かべながら現地を歩きましょう。 根来

 

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